宮尾登美子さんの思い出

自由時間

作家の宮尾登美子さんが老衰のため2014年12月30日に亡くなった。

すごい作家だった。波乱万丈の人生とはこのことなのかもしれない。

遊郭を経営する家に生まれた。その後満州へ行く。

それから、高知に帰ってきた。代用教員、出版社の編集者など職歴も面白いが激動の時代を生きてきた人で本当に苦労してきた人なのかもしれない。

意外と知られていないが野球が大好きで東京六大学野球の観戦に神宮球場はよく行ったといっていた。

誰のファンだったのですか?と聞いたら意外な名前が出てきた。「丸山清光選手が大好き」

丸山清光とは明治大学のエースでキャプテン。

江川と投げあい法政大学の連覇を止める歴史に残る名選手。

「もうね。江川選手がダントツのレベルでしょ。でもね。明治大学が法政大学に果敢に立ち向かっていくその姿が好きだった。」

女性をテーマに書いている作家が法政大学と明治大学の野球の違いを語りだしたとき宮尾登美子さんのイメージとまったく違った女性が生き生きと野球を語っていた。

縁あって一度講演会をお願いした。

盛岡公会堂は超満員だった。

宮尾さんは「何人きているの?」と聞いてきて

「満員です」と答えると

「あたしね。話すの実は苦手なんだけど。さあ行きましょうか」といって舞台に立った。

90分の予定が120分近くになり

「あら、話しすぎたかしら。また来ますね。」といって大拍手で講演会は終わった。

楽屋に引き上げてきてお茶を飲んでいるとお客さんが入ってきた。どうしてもサインがほしいという。

宮尾さんは笑顔で「いいですよ」といってお客さんが持ってきたサインペンで書こうとしたら「これではだめ。万年筆もってない」と聞かれたので私の太軸の万年筆を渡した。

笑いながらサインをして握手してお客様としばらく話す。そして、帰った瞬間

「お客様が入らないようにしてくださいね。」と丁寧にお叱りを受けた。

「この万年筆は書きやすいわね」と言われたので持っている万年筆をすべて見せた。

そうしたらいたく気に入った万年筆があり「ほしい」と言い出した。

どうぞとプレゼントした。

仙台の大橋堂の万年筆をほしいと言い出したが、これはちょいっと扱いが難しい。

エボナイトだ。着物が硫黄で染まったらこまる。

そこで、プロが調整した逸品を差し出したら「これ、この書き味よ」といって大喜び。

モンブランの146のM

1990年代の最高品質の万年筆で

ペン先は大井町の巨匠の調整によるものだ。

大井町の巨匠は松本正張の万年筆を修理していた人だ。
松本正張はモンブランの万年筆しか使わない。

アンティークの万年筆を好み毎週水曜日に10本修理して
翌週届けると10本が返ってくる。この繰り返しだったそうな。

大井町の巨匠に「宮尾登美子さんに万年筆差し上げた」といったら
「修理は回すなよ。作家さんの修理はこりごりだ」と言っていた。

宮尾先生はたぶんあの万年筆を使って書いていたのだろうか。

年賀状には「最高の万年筆で仕事ができるわ」と書いてあった。

宮尾登美子さんに美しい文章はどこから生まれてくるのかと質問したら「広辞苑を引きなさい。辞書を読むと言葉の意味を改めて気が付かせてくれるものです。いいですか。辞書は海です。こんな使い方があったのか。こんな言葉があったのかとおもったらメモしなさい。それを使えるようになりなさい。」

そういわれて以来、私の机の後ろにある本棚には広辞苑が鎮座している。

いつまでも、かいてほしかったな。

ご冥福をお祈りいたします。

合掌

miyao

 写真出典 Amazon

 

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